識者は大衆の部分集合


【言論の自由とはなにか】

 言論の自由なしには、自浄能力の無い社会となり、政策の誤り
 を糾すこともできない、ということを述べてきた。

 しかし一方で、野放図な言論の自由を許せば、衆愚の跋扈を許
 し、大衆受けする意見や、利己的な主張がまかり通るという懸
 念を示す人も多い。

 ゆえに、民主主義とは衆愚政治であり、言論の自由とは馬鹿が
 大声で叫ぶ自由にすぎない、と彼らはいう。

 しかし、である。

 もしも大衆に言論の自由を与えなければ、いわゆる識者や専門
 家の言動も同時に封じ込められてしまうということに彼らは気
 づいているであろうか?

 なぜならば、権力者や各分野の権威者は、自分達に都合の悪い
 意見や、理解できない論理を、衆愚の一部として圧殺してしま
 うからである。

  光が重力によって曲がるという仮説でさえ、アインシュタイ
  ンが皆既日食時の観測によって確かめられるという方法を提
  示する以前には、「出来の悪い学生の答案」だと言われてい
  たそうな。

 誰でもが言論の自由を持つということこそが、識者や専門家に
 自由な発表の場を作るということなのである。

 大衆と専門家は別の「集合」に存在するものではなくて、大衆
 という集合の中の部分集合が、識者や専門家というものなのだ。

 いわゆる識者諸君はここのところを誤解しているようだ。

 大衆と別の集合となる識者とは、今現在において権力・権威・
 権限を持っている者のことだけである。

 反体制派の識者でさえ、自分がグループ内で持っている権威に
 寄りかかっていることに変わりはない。

 それ以外の者は、いかに優れた言説を吐いても、グループの権
 力者達に理解されなければ、衆愚の一員として葬られることに
 なる。

 「識者は大衆の部分集合」である。

 ゆえに、大衆に言論の自由が無ければ、識者にも言論の自由は
 ありえない。

 あるのは、「権」を持った「いわゆる識者」の言論だけである。

 「しばしば、マスコミに登場するという”権”」
 「有名人であるという権」
 「権力者に近しいという権」
 「悪名が高いという権」

 これらも、政治権力の一部に他ならない。

 大衆の自由を否定する者は、自分自身が大衆の一部であること
 を理解していないか、なんらかの形で既存権力にコネを持って
 いる者である。