小泉と小沢の違い


【批判は自由である、されど服従せよ】

 民主主義以前の啓蒙君主の時代から言われている言葉である。

 批判は自由である。ただし、決まったことには従うべし。これは、
 多数決にも通じる考え方であるし、決まったことに従わないので
 あれば、団体としての統一行動が取れなくなる。

 意見は意見として、その違いを認め、その一方で、統一した行動を
 要求される。政教分離にも通じる、民主主義の大原則のひとつである。
 しかし、一体、何人がこれを理解しているであろうか。

 【小泉独裁?】

 本来、意見の違うもの同志が話し合うという行為は、不愉快なもの
 である。だから、他人の意見を「個人的に」聞かないというのもアリ
 だ。

 だがそれと、党内民主主義とは別の話である。

 個人的に相手の意見を聞かないのと、党組織として聞かないのとは、別
 の話だからである。政党内民主主義とは、党組織として「聞く」ことが
 できているかどうか、ということである。

 「党組織として聞く」とは何かといえば、党内批判者の発言を許容する
 ということである。小泉・竹中は、批判するなら出て行けとか、選挙で
 勝つまでは黙ってろ、とかは、言わなかった。

 逆に、「いやなら小泉をやめさせろ」と言ったのだ。

 亀井氏他の造反議員たちは、「自分の言うことを聞かなければ党議拘束
 に従わない」という態度を取って追い出された。民主主義の基礎も分か
 っていない幼児である。

 一方、加藤紘一氏も反対意見を述べたが、党議拘束には従った。当然の
 態度である。

 小泉「独裁?」下でも、このように政党内民主主義はあった。それを理解
 している人間が少なかっただけなのだ。

 小泉後の自民党政権下においては、さらにそうだ。ゆえにこそ、次々と首相
 が代わっていった。問題は、それが政党内民主主義の利点のひとつだという
 ことを、自民党自身が自覚しなかったという点にある。マスコミにいたって
 は、非難しかしなかった。マスコミ自身が民主主義を知らないのである。

 さて、小沢・鳩山独裁はこれに比べうるものであろうか・・・

 小沢・鳩山を批判することが、自身の政治化生命の存亡を意味しかねない政党
 に、自由も民主主義もありはしない。

 そのような政党において、自浄作用も、政策の練り直しも、できるはずがない。
 
 2009年夏、日本国民は政党内民主主義のない政党に政権を委ねた。このとき
 日本の民主主義は自殺したのである。今ある民主・日本は、死んでしまったこと
 を自覚できていない「ゾンビ国家」である。